「いま、大学って何?学問とはなんだ?」
こんにちは!長い間更新できておらずすみませんでした!
東京で二週間強過ごしていて、すっかり更新していませんでした、、、
これから少しずつ東京での出来事も消化していこうと思います!
先日、NHK Eテレ「日本のジレンマ」という番組の公開収録に参加してきました
(白熱する議論が面白くて見ていた番組を、ついに参加できてとっても楽しかった)
13:00 - 16:00までの三時間、社会学者の古市さんとNHKアナウンサー、広島大学教授陣、卒業生、学生、一般聴講者と白熱した議論が繰り広げられます。
公開収録ってこんなテンションでつくられているんだ、場の雰囲気作りに余念無いな、プロフェッショナルだなぁと、番組ディレクターさんをみて思ったのでした 笑
公開収録のテーマは、「いま、大学って何?学問とはなんだ?」です。
休学中の身で、今の時代大学に行く意味や学問とはなんなのかを見つめ直す機会となり、とても面白かったです。
大きなテーマが設けられ、あとは流れに任せて様々なトピックについて議論をします。
私が印象に残ったテーマは以下のようなものでした。
1) 大学におけるグローバルとローカル
2) 大学がかかえる、研究と教育という二面性のジレンマ
3) 日本国内の大学数縮小
4) 学問の有用性
5) 大学に行く意味はあるか
1)大学におけるグローバルとローカル
広島大学では、グローバル大学100に選出されることを目指し、講義を英語で学ぶ方式が導入されました。背景をざっくり説明すると、大学での学びをよりグローバルな領域へ持っていき、学生が世界の舞台で専門性を発揮できる人材にしようということ。
ここで、学生からある問題定義が出されました。
「習得しきれていない他言語で学ぶことは、非常に困難であり時間的コストが高い。講義を英語化したことで、学問の質が下がってきた。学問の質をおろそかにして英語化は違うと思う。」
なるほど。そもそも、グローバル人材の定義ってなんなんでしょう。私の考えに近いものを引用しました。
グローバル人材の定義
世界的な競争と共生が進む現代社会において、日本人としてのアイデンティティを持ちながら、広い視野に立って培われる教養と専門性、異なる言語、文化、価値を乗り越えて関係を構築するためのコミュニケーション能力と協調性、新しい価値を創造する能力、次世代までも視野に入れた社会貢献の意識などを持った人間」(「産学官によるグローバル人材の育成のための戦略」
カレーで簡単に例えます!笑 地球上に生きる人と同じ数だけのカレーのスパイスがあり、どのスパイスも特徴(文化・価値観)や味(教養・専門性)を持っています。グローバリゼーションによって、自分とは全く違う特徴と味を持つスパイス達と出会う機会がグンと増えました。この流れに逆らうことはできません。自分とは違うスパイスたちと自分を、うまく掛け合わせれば美味しいカレー、間違えれば美味しくないカレーができます。違う者通しのスパイス達が美味しいカレーを作るためには、①自分の持つ特徴と味の認識①違うスパイス同士でお互いを理解し意見しあうコミュニケーションの力②お互いを生かし合う協調性。これこそが、グローバル人材だということです。(スパイスで例えたことで、ちょっとニュアンスちがってたら、堪忍でっせ)
はい、カレーの話から広島大学がグローバル大学認定を目指している話に戻ります。
一人の学生さんが問題定義をしてくれたように、専門性もままならないままに英語の講義を履行するのはもしかしたら違うのかなと思いました。「グローバル人材=英語が話せる」のイメージが横行しているようにも感じました。母国語で専門性の高い学問をできることは世界中でも数少なく、日本の学生が恵まれている点の一つです。このトピックの議論を見て私が思ったことは、まず個の持つユニークネスと専門性を、広い視野に立って深め強靭なものにしていくことが、グローバル人材を教育する第一ステップなのではないかなということです。海外に行くと、自分のできることやユニークネスがうまくだせなければ、海外ではなかなか相手にしてもらいにくいです。そこを自己認識することが必要だと思います。
グローバル人材というと、真っ先に「語学の習得」が出てきます。言語を習得することによって、より多国籍多文化の人々と肩を並べるので、より広い視野と高い視座を持つことができます。英語で学問をするということは、とても意味があることです。しかし、その前に個のユニークネスと専門性を磨くことがグローバル人材の土台となることが、霞んでしまっているのではないかと思います。
2) 大学がかかえる、研究と教育という二面性のジレンマ
大学は研究機関でもあり学生を教育する機関としての役割ももっています。この二面性は、大学の教授陣や教師や事務委員の負担を重くしているという議題が持ち上がりました。特に、研究をしたい教授陣が教育が重くなることで、研究に身を入れることができない環境があることは問題であるということです。これに対し、University・College・Community Collegeと、大学の特徴によってわけるべきではないか?という意見や、大学に行く学生が多すぎるから縮小すべきではないかという意見が持ち上がりました。こうした意見が出た背景としては、①学びたいことがない学生が大学に進学する=高校からのエスカレーター式②日本の画一的性質をもった教育が挙げられます。
なるほど、私自身あまりやりたいこともなく今の大学に進学しました。自分が何をしたいのかどんなことに熱意を持っているのか、そうしたことに目を向けて進学を決めたのではありません。友達や先生や親が「大学どこに行くん?」と高校三年生になるとしきりに言われるようになり、なんとなく良いと言われる大学になんとなく行くという有様で、恥ずかしいことに大学進学は「周りが行くから行く。」ということなのです。おそらく、私のようなやりたい事が定まっていない学生を沢山、大学が受け止めてくれているというのが現状でしょうか。
3) 日本国内の大学数縮小
今、大学に進学する若者は日本にいる若者の約半数であるといわれています。また、少子高齢化社会がこれからも加速していく中、これほどの数の大学は必要なのかということです。
高校から大学に行くことが一般化しています。私も「将来を立てるためには絶対に大学に行かないといけないんだ!」と当たり前のように思っていました。当時、将来安泰のためにとりあえず大学に行っとけ!みたいな風潮が同学年にも教員の中にも両親からもありました。しかし、そもそも大学とは学問をする場所。学びたいことが不明確な中で行くというのも不思議な話でした。
今、学びたいことあれば、インターネットでいくらでもどこでも安くで学べます。同じ志持つ人の集まる場に行きたければ、情報を片手でとっていけます。インターネットの出現によって、圧倒的に手短に得られる情報量は増えたのです。私は、学生団体で経営とマーケティングとコンサルティングとSDGs(Sustainable Development Goals)の知識を身につけ実行できるレベルまでに落とし込まなければなりませんでした。そこで、インターネットや本を利用して知識をかき集め、実践に落とし込むことを毎日行っていました。(人間、本気でやろうと思えば日々の学びも怠らなくなるものだね)そんな毎日を送って、講義で一方的なレクチャーを受けているより、インターネットで知識を取ってきて、実践に落とし込み、仲間からフィードバックを受け、さらに学びを磨く。そっちの方が、知識を身につけ使うためにはうん十倍も効果があるヤン!!という感想を持ったのです。
私個人の意見ですが、大学に行かないと学べない!就職できない!安定した暮らしはない!という固定概念を、まず取っ払うことが必要だと思います。そして、学ぶための場は、大学以外にもインターネットや本やカレッジや海外での活動やインターンシップやアルバイトなど、いくらでも多く存在します。もっと適正な学ぶ場を自分で考え選び取ることができるようにすればいいんじゃないかなあ。
「大学数は肥大化されているので、もっと縮小をかけるべきではないか。大学は、学生を取り入れることに必死になりすぎている。」
4) 学問って一体何になるのか
「大学での学びが、社会に出てどう使えるのか」という議論に展開します。
「あなたは大学で何を学び、社会に出た後、その学びをどう社会に還元したいですか?」
こんな質問がいきなり突きつけられたら、ちょっと困ってしまいます。
うーん。大学で学ぶことって高次元で、いざ実践に落とし込んだり仕事といった業務レベルに落とし込んだり直接繋げることってなかなかイメージがつきません。自分がこれまで学んできたことが一体何になるというのか。そもそも自分にしっかり身についているのだろうか。特に、文系の大学生は答えにくいのではないかなと思いました。
「大学での学びって一体なんの役立つんだろう??」
議論の中で、大学での学びをすぐに成果に繋げようとしたり、学びがいったいどういうものであったのかはっきりさせようとする必要なんてないじゃないかという話題が出たことが印象的でした。「すぐに使えるものはすぐに使えなくなる」例えば、マーケティングを学ぶ学生は、一ヶ月前に習ったことがもう使えなくなっているなんてことを教員から言われることはざらにあると話してくれました。つまり、すぐに使えるようなビジネスの学びは、そのスピードからすぐに学んだことが使えないなんてことになるということなのです。
なーーーるほど、、
私も、休学で大学での学びを客観的に振り返得る中で、もっと学びの効果を長期間で味わえばいいのではないかと思うようになりました。学びを短期的に成果として表面に出すのではなく、今はなんなのかわからなくても、長い人生を経てじわじわと学びの影が自分から現れてくる。そっちの方がしっかり自分に長いスパン寄り添ってくれているし、より確かに人生の糧として支えてくれるものなのではないかなと考えるからです。
何かと、「大学で何を学び、それを将来にどのように繋げたいのですか???」と親戚や友人や大人たちに問われ、その度に「将来何かしらの成果を出す前提で学問しなきゃ!(o_o)」「学問がどう自身の身についたのかを短期間で示さなきゃ!(°_°)」「これまで学んできたことがどう役に立つのか答えを出さなきゃ!T_T」というプレッシャーを潜在的に感じています。でも、本心は「ただ好奇心で学問をしています。この学問が何になるかはわかりませんが、楽しくて好きだからやっています」それでいいのではないかと思いました。
5) 大学に行く意味はあるか
ありますもちろん!しかし、絶対に行かなければならない!ということはないと思います。なぜなら、「学び」はどこにでも転がっていると思うからです。日常生活、近所のおばちゃんとの会話、バイト、専門学校、海外修行、インターン、インターネット。。。私自身、正直大学に行っていることにどんな意味があるのかわからないです。もしかしたら、大学に行かないほうが、自分の手に技術がつき、自分のセンスをもっとのびのびと構築していけたかも。それでも、私が大学に行ってよかったと思うのはこうです。
口が腫れるほどの悩みですが、「大学に行く意味ってあるのかな」とずっと疑問を持ってきました。確かに面白い内容を大学で学んでいるが、今の学びが一体将来にどう役に立つのかと悩んでいたからです。こうして大学で四年間キャンパスで止まっているよりも、外へ出て実践から学ぶ方が、手っ取り早く自分のキャリアや未来を築けるのではないかと。
しかし、こうしてモノをちっさい脳で考えられるようになったのも、より様々な視点を持てるようになったことも、出会うことのなかった人々と出会うことができたもの、こうして自由奔放に自分の頭の中を見つめなおしたりできることも、全て大学生であるからなのだと思いました。そして、自分がこの三年間置かれてきた環境の面白さと素晴らしさを具体的に気付かされたのでした。何より、設備や未完成な部分に対し文句を言いつつも、個と世界の未来に可能性を感じさせてくれる、自分の大学が単純に好きなのだとわかりました。
自分の目指すものを模索し続け、どの方向に進むか決めきれない往生際の悪い私にとって、大学という環境は格好の考え悩む場だと思います。学問・教養・知と経験の化け物(教授)・やる気に溢れた悩める学生が集まった場で、モヤモヤと考えにふけっていられる時間は、無駄なように見えて未熟な私には必要なのだとわかりました。休学から復帰したら、とことん大学の環境を使い切りたいと意気込んだのでした。
追求したい学問のテーマや、興味関心が定まっていない人に対してでも、(私のような中途半端な若者にも)ダイナミックで新しい世界への間口を開けている、そんな存在だと自分の中で置くことにしました。
最後に
大学に在籍している自分を改めて問い直しているタイミングで、こうして「いま、大学とはナニ、学問とはナンダ」ということを見直せてラッキーでした。
また、こうして見直せたのも休学をしてこそだと思いました。大学に在籍している自分が「大学生である自分」を客観的に見ているというのは、なんとも不思議ですが、こうして今一度学べる環境に身をどっぷり沈めているありがたさとその意味を、長期スパンの視点とゆとりを持って理解できるというのは、素晴らしいと思います。
余談ですが、公開収録の中でも何回か「Gap Year」について触れました。
(その時に、せっかくなんだから発言すればよかった、、、とめっちゃ公開しているんだけど)
何に役立つかとかなんのためにやってるか、考えることもあるけど、
まずは自分の好奇心や疑問にとことん向き合い、自由を味わいきればそれはそれでとても意味があることなんじゃないかな。そんなことを体験できるのが休学だと思います。
さあ、今日はここまで!Bye!
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