人間だもの、鬱病にだってなる
鬱病を隠さなくてもいい世の中になったらいいのにって思う。
「ちょっと、インフルエンザなんだよね」って言う感じで言えるようになったら。
生きてたら、辛い事や悲しい事が突然訪れる事がある。
生きてたら、自分の感情が見えなくてスッカラカンの空っぽになる。
いつの間にか、世の中の矜羯羅がったモヤモヤに飛び込んでいて、
何もかもが嫌になる。
そういう事って、生きてたら普通にあると思うんだ。
まあ、言うとさ
自分の口から誰かに言った事はないけど、私自身も鬱病を患っている。
ひどいときは、体と頭が重くなって布団から一週間出られない。
何を見ても聞いても、心が鈍くなって感じる事ができない。
常に不安で、出会う人全てが敵に見えて、誰とも話したくない感じ。
理由なく突然一人部屋で大泣するし、まくらに口をあてて叫んだりもする。
ずっと殻にこもる自分は、社会のクズなんだと思えてきちゃって、辛くなる。
そういう日々が、一ヶ月、二ヶ月、半年、一年と続くと
「自分は生きている意味あるのかな」なんて思えてきて、そんな事を思いながら10階の窓のから、外をよく見るようになって、自分の生きる力が弱まっている事に気づき、また落ち込む。
自律神経失調症になり、昼夜逆転、高熱が急に出る、突然身体が激しく痛む、そんな症状も持つようになった。
心も体も限界で、何かにすがるように一年休みをとる事にしたの。
今は6ヶ月目。
近況をついでに言っとくと、毎日少しずつ少しずつ、良い方向へいってます。
最近は、自分の心の声がよく聞こえるし、生きていて楽しいなと思う。
ありがたい事に、やりたい事まで見つけた。目標ができた。
まだ鬱病を患っているけど、それも受け入れいている。
鬱病は、人間なら誰でもかかる。
「辛いときこそ、笑顔をつくって」
「辛いときは、前に進む努力をしよう」
私の場合、不安や辛さを、努力と成功体験で払拭しようとしてた。マイナスを、プラスで埋めて、0にしてやろうっていうマインド。
でも、それは根本的な心の治療にはならず、逆に自分自身に負荷をかける事になって、余計に辛くなり不安になった。
鬱病の怖いところは、そうして辛いにもかかわらず「今辛いのは、自分の努力が足りないからだ。自分が弱いからだ。」と思い、さらに頑張ろうとしてしまうことだ。
自分の心に耳を傾けず、世間体や他人からの評価ばかりに重きを置きすぎた結果、心が完全に潰れてしまった。
加えて、喉から溢れそうになる程辛いのに、誰にも相談できないので、さらに抱え込み塞ぎ込んでしまって、拗らせたのです。
こういう人、結構いる気がするんだよね。
程度は様々であれど、鬱病は誰でも患う心の病(風邪)。
人間であれば、だれでもかかる。
喉から溢れそうな辛さを、ずっと自分の中に押し込み続けたのか。
私の場合、理由は二つある。
一つ目は、私が鬱病であるとわかった瞬間、知人友人から距離を置かれ拒絶される事を恐れたから。
二つ目は、自分が鬱病になるなんて思っていなかったし、恥ずかしい事だと思っていた。
私のいるコミュニティー内には、鬱病というワードから「神経が細く、精神力の弱い不幸な人間 」という固定観念があるように思う。
「あの子、鬱病なんだって。大変ね、かわいそう。」といった具合に、鬱病患者を"自分たちとは別次元の弱い人間"として、一線を引き距離をとる雰囲気がある。
私も、そんな考えを持っていたから、自分が鬱病であるとわかってきた時、受け入れられず、自己否定ばかりしていた。
だから、私が鬱病を患っていると聞いたときに、"かわいそうな人間"として、周りのみんなから距離を置かれるのが怖かった。
実際、打ち明けた時、「あなたは鬱病じゃないわよ。大げさに考えすぎないで。」と言われた事は、今でも強く印象に残っている。"大学で好きな事やって勉強できて、ちゃんと飯を食べていける、とても恵まれた環境の中にいる君が、鬱病なんかにかかるわけない。私たちのコミュニティーから鬱病を患う人が出るなんてありえない。" 言葉の裏に、そんなメッセージや意識が込められているように感じて、悲しかった。
その雰囲気はどこから生まれるの?
「鬱病」を、自分たちとはかけ離れた事として距離を置く雰囲気は、どうやって生み出されるのか、考えてみて二つあるなと思う。
一つは、鬱病にかかる人のイメージが固定されている事。
「鬱病は、何か重たい事情を抱えている、不安定で弱い、かわいそうな人間が患う病気」そんな偏見的なイメージが先走りしている。そこから派生して、このパターンの人は、鬱病になりやすい、このパターンの人は鬱病になりにくい、という変な人間のジャンル分けができている。それによって「私は、恵まれた環境で成功もしているから、鬱病になんてなるはずない(なってはいけない)」と辛さを表に出せない環境が出来上がっていると思う。程度の差あれど、鬱病である事は事実なのに、そんな固定されたイメージによって、自分が弱い人間になってしまったのか、なかなか鬱病である事を受け入れられない。感情を持つ人間なら、誰でもなる可能性のある病気なのに。
二つ目は、綺麗なものばかりが評価されるから。
Instagramを開いたら、みんな楽しかった事とか自分が綺麗に見えるような写真とかそんな事ばっかりで、正直うんざりする。フォローしているインフルエンサーやモデルの投稿も、だいたいパターンが決まっていてつまらない。街中を歩いていたら、みんな毅然として歩いている。世の中、(少なくとも私のいるコミュニティーでは)良い事ばっかりにフォーカスしすぎて、悲しい事や辛いこと、醜い側面をあまりにも隠しすぎているんじゃないかな?綺麗なことばっかりで、疲れる。綺麗である事だけが良しとされすぎて、順風満帆な人生を誰もが目指しすぎて、泣いたり怒ったり叫んだり、そういう人間らしい部分が見えにくい。隠しちゃう。鬱病という心の病を藪から棒に避け、面倒くさがり、遠ざける。
社会全体的に、すべての人は感情を持ち、隠と陽の両面を持ち合わせた人間であるという認識が、もっと深まればいいのになと願う。もっと、悲しさや辛さが表面的に見えるような場、思いをぶちまけられるお喋りの場が、公にあったらいいのにね。
綺麗だけ、元気なだけ、楽しいだけ、そんなのはつまらない。
不安で、醜くて、悲しくて、辛くて、寂しい。そんな一面も持ち合わせるからこそ、人生に強弱がついて人間らしいと思う。
断言したいのは、
鬱病を患うのは弱くて出来が悪いからじゃない。
鬱病を患うのは、隠と陽、感情を持つ人間だからだ。
鬱病で辛くなれば、心ゆくまで休む自分を許してあげたい。
鬱病で辛い人を、本人が心ゆくまで休ませてあげられる社会にしたい。
メンタルヘルスを根性論なんかで後回しにせず、大切なトピックとして扱えるような世の中だったらいいと思う。
そして、「人間らしいね」という言葉が飛び交う世の中だったらいいのにと願う。
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