淡さと複雑さと流動性で世界を彩る
山陰に沈みゆく夕日と、すっかり秋空なグラデーションの移ろいを眺めながら、
ただ波音と海風に吹かれ、一人で作ったトマトソースのパスタを食べながら、
ただ沈む太陽と、ただ色濃くなる夜の色と、ただ黒くなってゆく山々や島々を見て、
「あ〜この淡さこそが"本当"なのかもな〜」
なんて、目から霧が取れて、今生きている場所のありのままの姿を見れた気がした。
"本当"というのは、この地球上で起こっている生の出来事。
自分の持っている感情や価値観といったものの濃度を下げた時に見る事のできる、リアルな姿。
その束の間な時間が、とても幸せであると感じる。
二色だけの世界
何かにつけ、私は白黒をつけようとする。私の周りの人もそう。
これは良いか悪いか。これは私にとって有益か否か。これは正しいか間違っているか。
SNSなんか、その代表なんじゃないかな。
写真と文章をアップロードして、フォロワーから返ってくる反応といえば、だいたいが「いいね!」かそうじゃないかの二択。コメントも、なんだか単調なものが多い。
私たちは、こんな風に自分にとって白か黒かの付箋を、ただそこで起こった生の出来事や事象に貼り付ける。
そこで出会った出来事を、良し悪し、正否、有益不利益、美しい醜い、そうやって意味づけようとするんだ。
「あの子は、有名どころの企業に就職して、良。」
「あいつは、自分のやりたい事やって海外で挑戦しているから良。」
「あの先輩のいう事はいつも正しい。」
「彼女の経験談は、いつも私をインスパイアしてくれるから有益。」
「あの先生は、くだらない事しか教えてくれないから、不良。」
「あの後輩は、なんかしょうもない事しか考えられないから、悪。」
「彼は家で引きこもって出てこないみたいよ。本当に社会のクズね。」
...................。
と、まあこんな風な会話は日常的によく聞くし、
インスタやフェイスブックなどのキラキライキイキとした投稿ばかり見ていると、この二色の世界の産物なんだというのがなんとなく感じとられる。(だって、いいね!か否かの世界だもんね、あのアプリの中は。)
なんて息がしにくいんだ
そんな、二色譚な世界は、なんて息がしにくく、生きづらいのだろう。
私がこれまで苦しんできた事の多くは、二色だけでできた世界の中で生まれたものだった。
「高い数値が並べられた成績表を取りなさい。良い学校を出て、名高い会社から社会人生活をスタートさせなさい。」という大人たち。
「海外でこんな素晴らしい経験をしてきて、将来はこうなりたい!」と生き生きと話す先輩たち。
「今は、どこどこでインターンをして、素晴らしい経験を積んでいて有意義なんだ!」と長い文章と写真をSNSにアップロードする知人たち。
良い企業に就職するために、心を殺しながら就活をする友人たち。
常に、みんなが良い悪いの評価に晒され続ける。
そんな中で、私も「悪い」を避け、「良い」を当たり前のように求める。
そんな中で、自分を良し悪しで評価し、人を良し悪しで評価する。
こんな二色の世界の中にいると、段々生きている心地がしなくなってきて、心が殺伐としてきた。
本当は、二色譚では表せない色ががたくさん自分の中にあって、それらは時の流れとともに流動的に変化し、複雑なものなのに、
良し悪しのレッテルを自分や周囲の事象に貼っては、劣等感を持ったり優越感に浸ったり。
そのうち、どんなにもがいても「良い」になりきれない自分の存在価値を疑う。
本当に息がしにくく、生きづらいと感じてしまう。
世の中に目を向けても、きっとこの良し悪し二色の世界で心が荒んでできたようなニュースが多いように見受けられる。
相模原障害者施設殺傷事件。
ある国会議員による性的少数者への差別的見解と主張。
若者による無差別殺人事件の多発。
中東問題に油を注ぐような政治家の発言の数々。
世の中が、文化的良し悪しのレッテルによって、どんどん分断されていく。
本当は、ただそこにある複雑で流動的にある事象なのに、
どうも私たちは、自分で二色に塗り分けて意味付けし、その意味づけしたものに囚われるのが好きらしい。
勝手に二色に塗り分けた事象にしがみつき、勝手に苦しくなっていく。
複雑で流動的で淡い色をしたありのままの姿を見ようとせず。
人間の尊厳や複雑さが、良し悪しのレッテルによって脅かされている。
もっと淡い気配と存在を大事にしたい
私はこれまで「高校卒業→大学卒業→就職が良い」という世界しか見てこなかったなあと休学して気づいたことは、私に二色以外のカラフルな広い世界をみるきっかけとなっている。
「学生時代に"良い"経験をして、就活と単位取得頑張って、"良い"会社に入る」のが良い人生、みたいな考えに縛られていたと思う。それ以外は、失敗している人生みたいな。
だけど、休学して外の世界に目を向けていると、いろんな人生をそれぞれの歩み方で生きている人がいた。
自分の人生を良い悪いの二色に分けて、それに縛られたり、他の人と比較したり。
そんなこと、なんの意味もないのかもしれないと思った。
そんな良し悪しのレッテルはあまりにも狭い世界で、私を縛り付ける。
そんなものよりも、もっと大切なことがあると思った。
世界は、いろんな淡い色があって、複雑で、時の流れとともに流動的に変化する。
ただそれだけ。
そこにレッテルを貼って意味付けするのは、あまりにも小さい作業だ。
そんなものに縛られて、人間らしさや自然や時の流れ、そういうものを無視するのは、もう嫌だな。
淡く一言では片付けることなど到底できない何か。
そういったものの気配と存在に目を向けるようになれば、
今ある苦しさや辛さなんて、なんてことないんだと思う。
淡さと淡い気配と複雑な存在。そういったものを、もった大事にしたい。
そうしたら、世界をもっと広く捉えることができるかもしれない。
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