窮屈をつくる枠のお話

こんにちは🐼

広島での生活もいよいよ2週間目に差し掛かろうとしています

何か特別なことがあるわけではないけど、

一瞬一瞬を大切にしながら生きている感があって、とても充実した時間をおくっています。

そんな、伸び伸びと過ごさせてもらっている私が、

中学生くらいからずっと"窮屈に感じてきたこと" をテーマに書きます:)

「〜らしさ」が作る窮屈な枠 の話

自分らしさ、女らしさ、男らしさ、母親らしさ、父親らしさ、娘らしさ、息子らしさ、大人らしさ、子供らしさ、先輩らしさ、後輩らしさ、先生らしさ、生徒らしさ、リーダーらしさ、、、、

この世界には色んな「〜らしさ」がある。

生活する中で、結構「〜らしさ」が意識された言動って社会にあるなあと気づきました。

"こんな位置にいる人は、だいたいこんな感じでいるべきよね、この人、◯◯らしさ出てるわ〜"

"この人っていっつもこうだよね、◯◯らしいわ〜。"

と、「こうあるべき」「こうであるのが良い」という暗黙のルールと枠が作られる。

そして、そのルールに従わなかったり、枠に入っていない人は

「なんで〜らしくいないの?」「正しい姿ではない!」

みたいに、違和感として指を指される対象になるか、社会の爪弾きになっちゃう。

私には、この「〜らしさ」で、その人を一般化して捉える感じが、

どうも、その人の意外性や発展性や個性を潰しているように思えて仕方ないんです。

誰かが勝手に作った暗黙のルールや枠を疑いなくいると、

自分の本来持っている考えや感情や感性を放棄してしまう。

「これが良しとされているから、自分もこうする」

「これが〜らしいから、自分もこうする」

みたいなのが、無意識にされているから、怖いなあって思います。


例えば、"女の子らしさ"

わたし、この"女の子らしさ"って一番くだらないなあと思いながらも

なんだかんだ悩みの種でした。

今は、ジェンダーって言われてるよね。

「女の子は、こうであれ」みたいなリストが、

家族/先生/同級生/異性から突き出されて、それをクリアしないと

「男の子っぽいからやめなさい」と言われる。

"自分はこうしていたいのに"

と思っても、現実は、

「指導され、正される」もしくは「違和感を持ってくる私らとは違う子」として爪弾きにされてしまうのです。

それが嫌だし面倒だったから、結局"女の子らしさ"を意識することもありました。

"女の子らしく"いると、それなりに評価されるし「良く」あることができる。


だけど、どうも自分は居心地悪いし、"我、ここにあらず"感がある。

みんなにとって「良い」とされる人になりたいけど、

それでは自分がハッピーでいられないことに気づいた時から、

Originalで自分が良いと思う姿を作ることを大切にするようになりました。


Googleで「女の子らしい」とイメージ検索したら、いわゆる「フワフワ系」と呼ばれる巻き髪でパステルカラーな感じのモデルさんの画像がたくさんヒットしました。ヒットした画像のほとんどが、「フワフワ系」と言われるような華奢なモデルさんばかり。

でも、「いや、これ一つのジャンルやん」と思うわけです。

私の知っている限り、イメージ検索でヒットしたような人ばかりではない。

実際、街中見てもそんな人ばっかりじゃないよね。

ビビッドカラーな雰囲気の人、青色の雰囲気を持つ人、オレンジ色の雰囲気を持つ人、薄い緑色の雰囲気を持つ人と、本当に人それぞれの個性を持っています。そして、それぞれの個性すべてが不完全なんだけど、どこか魅力的。

枠にはまっている人よりも、個性を最大限輝かせている人の方が美しいなあって思うくらい。

だから、一つの枠をつくるのも、その枠にはまろうとするのも、

必要ないし、むしろ美しさやその人の持つエネルギーをふさぎ込むネガティブな作用があるんじゃないかな。


絵の具で言ったらこんな感じ

例えば、世の中の大多数の人が評価する色が白色だったとして、しかし、自分が本来持つ色は青色だとします。社会で評価してもらおうと、必死に自分の持つオリジナルの色に白色を塗り重ねようとする。しかし、うっすらと自分の色が白色に混じって出てしまうので、白になりきれない。なりきれない自分に苛立ち、劣等感を抱き、社会の中の自分の存在に疑問を持ってしまう。

例えば、「白色になるべき」人がいたとして、しかし、その人は自分の色を消しきれず白色になれない。しかし、そこが白色ではないと絵は台無しになってしまう。すると、周りの人はその色に苛立ち、時にその色をもつ人の存在否定をしてしまう。

「"〜らしさ"の枠」によって沢山の人が、抱く必要のない劣等感や、感じる必要のない辛さを、胸の内で募らせているのかなと、ふと思うんです。


なぜ"〜らしさ"が作られるだろう

たぶん、そうやって枠を決めていた方が"楽かつ効率的"に社会で過ごせるから

なのかなと仮定しています。

自分の色を、その社会にどう使うか、どこにどう溶け込ませるか見つけることって、意外とエネルギーが必要なこと。どうしたら良いかわからなくなって、路頭に迷うこともある。色と色がぶつかることもある。

でも、忙しなく進む今の世界では、そんなことに時間を使ってる暇なんてない。

だから、枠をつくって捉えたり、枠にはまっている方が、楽になのかなって

確かに、その枠に助けられている場面ってあるのかもしれないです。


だけどさ、

枠は、所詮枠。効率化させるツール。

枠を意識しすぎて、自分の良さが霞んでしまったり

枠にはまっていることも気付かなくなって、感情や思考が奪われてしまったり。

枠が絶対に良いと決めつけちゃって、

人に自分の価値観を押し付け苦しめることになるかも。

時には、色と色がぶつかってもいいから「自分の色は◯色です」と一人の人間として胸を張って言えるようになりたいし、胸を張って言えるような社会で生きたいと思います。

異なった個性や価値観をまるめこむ枠なんかより、

ぶつかりあってできた"何か"の方がずっと価値があるし面白い。

そうあるためには、「リスペクトする」ことや「許せる」広い心の器が必要だと学びました。



社会の「こうであるべき」という一方的な枠を壊すなんて、大げさなことをせずとも、

まずは、自分が自分の軸感じながら、生きていきたいなあ〜

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