猫から学ぶことがある

LINEが使えなくなって早一ヶ月を優に超えました...

本当に、いろんな人にご迷惑をおかけしているのだろうなあと思いつつ。

iPhone離れに成功しつつあり、アナログの時間をのんびり楽しんでいます。

と同時に、最近は某外資系倉庫店で働いています。

(外資系企業の福利厚生のすごさと、セールスの戦略とそのシステムがものすごく面白い!)


さて、そんな私が猫と共に過ごしているここ最近の二週間が、今日のトピックです。

愛猫が病気をしてしまいました。その中で学んだ事をつらつらと書きます。

複雑な事なので、まとまりきれていなかったり、書ききれていない事があるけど悪しからず。


私の実家で三匹の猫がいます。一番年長は11年生きている白猫・オッドアイ・鍵尻尾のちーちゃんです。私が小学校5年生からいるチーちゃんは、私にとって姉妹のような、My Buddy的存在。放課後は一緒に遊び、夜は一緒に寝、一緒にご飯を食べ、楽しい時も辛い時もそっと側にいます。我儘で、頑固で、ドジで、神経質で、マイペースで、プライドが高く、たまに誰よりも優しい。私の人生、チーちゃんなしでは語れないと言っても過言ではないです。

そのチーちゃん、ある日仕事から帰ってくると耳が真っ黄色になっていました。黄疸です。病院で日々検査をすると、黄疸の原因は脂肪肝であるということでした。脂肪肝とは簡単に言うと、肝臓の細胞が脂肪に変わり、肝機能が低下していく病気。肝臓の機能が低下すると、食べたものをエネルギーに変換することが難しくなります。この脂肪肝に特効薬などはなく、とにかく口から食べて肝臓の細胞を再生させることだけが唯一の治療法です。


食べることは生きること

口でものを食べるということは、生きることなのだと痛いほど知らされています。

動物は、食べてその食べ物からエネルギーを吸収し、そのエネルギーを身体の様々な部位に送り届けます。食べて、エネルギーをいただき、それによって生かされているのです。

私は、いつも通りお腹が空き美味しいご飯を食べますが、チーちゃんはキャットフードを食べません。猫は食べないと自分の筋肉を削ってエネルギーに変換して生きます。チーちゃんは、具合が悪いせいかキャットフードを食べないため、自分の筋肉をエネルギーに変換するので、毎日100gずつ軽くなっていきます。

日々、チーちゃんがこの世界から100gずついなくなっていくような気がして、痩せてゆく姿を見ることは、始めの一週間本当に辛かったです。食べて欲しいけど、唯一たべるものは大好物の鰹節だけ。しかし、キャットフードと比較すれば鰹節で摂取できるカロリーだなんてたかが知れています。食欲不振の猫には、「強制給餌」といってシリンジで強制的に餌やカロリーの高いものを口に流し込む方法で、ご飯を食べさせる方法があります。もちろん、うちのチーちゃんにも始めやっていました。嫌がる愛猫に無理やり高カロリーのものを仰々しいシリンジを使って口に入れ込む。口からぶくぶく吹き出して、綺麗な白い毛が注入物で汚れる姿も本当に見ていてかわいそうでした。でも、食べさせないと、また明日チーちゃんが100g減っていってしまう。暴れるチーちゃんをタオルで押さえ付けて、泣く泣く強制給餌していました。

自分の口でものを美味しく食べる事。これは、生きていく上での要なのだと強く思いました。食べることは、生きる事です。

唯一、大好物の鰹節に救われたと思います。(大好物のものって本当に大事ね)

まだ十分なカロリーを食べる事ができないチーちゃんですが、少しずつ少しずつ食べています。今日は、猫缶を一つ平らげる事ができそう!5日間の絶食でお腹空いていたんだねー。


生きる事はバランス

「生きる事は、バランスなんだ!」と知りました。呼吸をして、寝て、食べて、運動して、排泄して、太陽を浴びて。この単純な行動が成立するために、体のあらゆる部分が正常にバランスを取れていなければならないみたいです。体内温度や水分量、それぞれの臓器の働く掛け合い。外部環境の温度、室温、音、色、明るさ。人やその他との社会的関係。

生きる事って様々な要素が、微妙なバランスを絶妙なに保つ事。

逆に、そのバランスはある事をきっかけに崩れてしまうものでもある。

そんな時に、いかにしてバランスを立て直すか。

チーちゃんが、ストレスフリーでより健やかに過ごせるためにはいかにすべきか。

そんな事をを考えては試し、考えては試す中で、そう思いました。


猫の生命力

ご飯を食べていない、水もろくに飲めない、毎日100gずつ減ってゆく。体力がないはずなのに、気力と意志でいろんな事に挑戦しています。そんなチーちゃんの生命力に感服している日々です。目を閉じてぐったりとしているかと思えば、いきなりスクッと起き上がって伸びをしあくびをし、水を飲む。朝、朝日を浴びながらベランダを散歩する。筋肉もないのに、「私の"場所"である猫タワーのあそこに登るぞ!」と決め、一生懸命ネコタワーに登っていきます。

昨日は毛づくろいできなかったけど、今日は毛づくろいができるようになる。

昨日はネコタワーに登れなかったけど、今日はネコタワーに登っている。

昨日は熱がありぐったりしていたけど、今日は熱もなくしっかり歩いている。

水が飲みたければ鳴いて伝えてくるし、トイレに行きたいと思えば自分で歩いていく。

チーちゃんからは、一切の失望やネガティブなものは見られず、

ただ、生命のバランスを取り、命を紡ぎ生きようとしている、直向きな姿のみが目の前にあります。ぐったりしている時に苦しさや体の痛さだるさと闘っており、決して簡単な状況の中にはいませんが、だからこそ生きるのだという前向きなものをヒシヒシと感じるのです。

一生懸命生きようとする姿勢に、私は絶対敵わないなという尊敬の眼差しでチーちゃんを見ています。

My Buddyであるはずのチーちゃんが、いつの間にここまでたくましくなっているのか。

彼女との出会いを思い出せば、もしかしたら、そのたくましさは、本来持って生まれてきたのかもしれません。天性のたくましさ的な感じ。

1.5m下の排水管の中で、雨の中、小さな子猫がミャーミャー声を振り絞って鳴いていました。誰かが助けてくれる保証なんてないのに、それでも必死で生きようと、小さな体から助けを一日以上鳴いて鳴いて鳴きまくっていたのです。

本当にラッキーな事に、弟とその友達がたまたまそこを通りかかりました。そしてその翌日の夕方。足場として排水管の中に入れ込んだ竹を、なんとかよじ登って地上へ這い上がってきたのです。それが、チーちゃんです。それから、うちに連れて帰り、家では「奇跡のラッキー猫」とある種拝め立てられていました。

そんな彼女は、ちょっとやそっとの事で弱音を吐いている私を、彼女の生き方を持って正してくれています。

「あーもう嫌やん。しんどい消えたいーーー。」とか平気で言ってしまう私がおかしいでしょうね。

生きていれば辛い事に必ずぶつかりますが、それを自分の中でどう捉えるのか。私は、これから一分でも一秒でも生きてゆく自分をレベルアップさせてくれる階段であると捉えようと考えを改めました。

生きている事は素晴らしい事だね。尊いですね。

愛情の大きさ

愛情って、生きてゆく上でとても大きな役割を果たしているのだと気づかされています。チーちゃんが病気だとわかってから、これまでにないほど、自分がチーちゃんに対して持っている愛情を、目に見える形で表現するようにしました。空気が乾燥していると思えば加湿器を持ってき、30分ごとにチーちゃんの様子を見て、チーちゃんに関する様々な日々の情報をノートに記録していく。水を飲む時も、薬を入れる時も、餌を食べる時も、近くにいて介助させてもらったり、様々な事を自分のできる範囲で実行しています。獣医さんと比べれば、素人考えの延長線の施しであるため、効果を十分に出せるものではないのかもしれません。しかし、こうして愛情をチーちゃんにダイレクトにぶつける事で、チーちゃん自身安心する事ができるようです。彼女の表情を見ていたら、なんとなくそんな感じがします(人間の勝手な当てつけかもしれんけど笑)言葉は通じなくとも分かり合える事が猫と人間の間にもあると、強く信じています。そして、それは愛情によってお互いの気持ちの共有がさらに確固たるものになるのだと感じるようになりました。

人間・動物関係なく、ALL WE NEED IS LOVEなんだよね


チーちゃんと出会い、11年間の時を経て、たった今同じ時間を同じ屋根の下で生きている。

面白いなあと、何より幸せだなあと、そんな事を噛み締めている今。


チーちゃんの病気をきっかけに、ここ二週間あまり、寝ても覚めても猫の事で頭がいっぱいでした。

これからも、できるだけ長く、バランスを見極めながらチーちゃんと共に有意義な時を過ごし、彼女からたくさんの事を学び取っていきたいです。


0コメント

  • 1000 / 1000